Notitiae vix notandae

タイトルのとおり。知られる必要のほとんどない知見を書いていきます。

闇に消えた「お泊まり会」について

 「お泊まり会」問題など,誰の目にも明白なこと,もはや不肖めの更めて論じるまでもなし,〈What a Wonderful World!〉*1イベント開始よりもう1週間も経とうとし,そう諦念まじりに思われていた折,「お泊まり会」問題の問題たるゆえんはもしや案外と理解されていないのではないか,と,愚鈍なるこの身にも気づかれざるをえなかった.こうしたことを誌し伝える語り部の任にはわたくしの分不相応も痛感されるにせよ,しかし,時の過ぎゆきこの事件の全く無かったこととして埋もれるのを惧れ,たとえ拙くとも何らかのヒストリアーを残しておくべきであろう,と思われる.このような問題のあったこと,いうなら,このような出来事の真に問題としてあったというそのこと,忘れられるべきではない,と,信ずる,まさしく今日,弱々しい記憶力が鮮明なこの想念を手放してしまう前に,みずからに辿々しくも筆を執るよう強いるべく,わたくしは意を固めた.

 行論は次の通り:まず,「お泊まり会」があってあるべきであった,その所縁を見定める.そして,この所縁にもかかわらず,「お泊まり会」の絶えて無かったこと,これがどのように問題であるのかを示す.

あらまし

 本文は下に続くが,長くなってしまったので,簡潔に話の筋をまとめておこう.

 わたくしはこの論稿で,第一に,お泊まり会がなければならないとの理解,これの拠って立つ事由を示した.第二に,それがさまざまの問題を帰結してしまう限りで,お泊まり会の無いことが,いかに問題含みであるか,を示した.ひとつめについては,まとめるまでもなく,わたくしの論証を細部まで追い,その正否を判定されるよう,諸賢にお願い申し上げるよりほかない.ふたつめについては,雑多な問題群の提示ではあるが,その核心を取り出すなら,ひなちさの,何より千聖その人の,立ち向かうべき困難,それが示されるだけ示されたにもかかわらず,それへの立ち向かいの,他には代え難いであろう機会は,奪われた,という主張,これである.

 あらましの行きしなに一言しておく.わたくしは擬似問題を立てたつもりなどない.瑣末事を論ったつもりもない.「千聖に内在的なかたちで今回の日菜理解の形式を眺めるならば,そこには何の不整合も争いの余地もない」という種類のことをいう人々があるようだ.よしそうであるとしても,それは問題の先送りでしかない.むしろ,千聖の内在的な問題として,問題はこの上なく real にある,というそのことが,はっきり顕わになるだけであろう.みずからのこれまでの枠組みには収まりきらない他人と出会う.みずからこれまで培ってきたパースペクティヴではじゅうぶん精確にとらえることのかなわないかもしれぬ,他人のそうした側面を知る,少なくとも,その一端に触れる.その地点から,だんだんとパースペクティヴを広げてゆき,だんだんわかり,またわかり〝あって〟ゆく.こうした趣きがなぜ汲まれないのか,不思議でならない.(27/2/2018追記)

 

「お泊まり会」のあってあるべき所縁

1. 今回イベントストーリー・エンディングにおける,その徴候的仄示

 WWWイベントストーリー・エンディングにおいて「お泊まり会」の存在が予示されていたことは,今はまだなお記憶に新しいであろう.リリースイベントを終えたあとの夕方,日菜が千聖を氷川の自宅へ,泊まり明かそう,と誘う,そのところでこの話は締められている.そうであれば,このお泊まり会の描写がどこかには続いていくのだろう,との予感が得られる.これだけいって足りると思われるにせよ,その蓋然性のいとも高く,その可能性のきわめて有望であること,それがもう一度われわれの身に染みて実感されるように,このことを入念に論証しておこう.以下,事の詳らかになるように,該当箇所を長めに引用する.*2なお,各発話末尾に附した数字は引用者によるもので,行論の上での利便のために他ならない.

 

日菜:はあ〜.今日はたーっくさんのあたしじゃない人達に会えて,

あたしはあたししかいないんだって気づけて……

すっごく楽しかったけどさ[1]

日菜:やっぱパスパレのみんながいっちばん面白いな〜.好き![2]

千聖:(……自分がたった1人だって気づいた時に

こんな風に思える人間って他にいるのかしら)[3]

千聖:(真の意味で日菜ちゃんはたった1人の存在なんだわ)[4]

日菜:千聖ちゃん! どしたの? 考え事?[5]

千聖:え? ええ……ちょっと.ね[6]

日菜:なになに? 気になる!

ねえねえ千聖ちゃん! あたし,もっと他人と話したい!

千聖ちゃん,お茶でもしようよ![7]

千聖:えっ!? これから?

今日はもう遅いし……[8]

日菜:え〜!? いいじゃん!

じゃあさ,あたしの家泊まらない? ねえねえ〜![9]

千聖:い,いえ……明日は朝から収録があるし……[10]

日菜:大丈夫だって! 朝までお話してようよ!

それで,一緒に現場までいけばいーじゃん〜!

ねえねえ,千聖ちゃん〜![11]

 

 まず,[1]から[4]までをみると,[1], [2]の日菜の言を承けて,千聖が日菜に関する想いを[3], [4]と独白する,という流れになっている.*3[4]の時点では,千聖の独白が独白としての限りあり,日菜には伝わっていない.内心のことが内心にとどまっている.千聖の内心で想い描かれる日菜の像,表象は,目の前に一個の人格としてある日菜との連絡なしに,秘めて作りなされたものとしてのみある.

 千聖のこの秘密を秘密たるままにはしておくまい,というのが,果たしてその意図するところなりや否やは不明にして,すかさずの日菜の言[5]であるといってよい.とまどう色の千聖([6])に,日菜は重ねて畳み掛ける([7]).それに抗する千聖の応答[8]まで,ここがふたつめの塊である.連絡のない二者のあいだに路を開き,通わせよう,とする一方に対して,否として押し続ける他方.ここにこうした構図をみてとってみすぎている,ということもないであろう.日菜が秘密の開示を要求し,千聖がその要求にためらいを示す,という様子であるとは,少なくともいえるであろう.

 千聖の想い描く日菜像は,その真偽や,千聖に内在的な正当性の問題がここでは差し置かれるにしても,両者どうしの,個々に真摯なしかたで向き合う,腰の据わった対話によって洗練されるべきところ,パスパレ結成よりずいぶん時間を重ね,幾多の困難を共に乗り越えてきた両者の,一見昵懇の間柄にも反して,そのようには,この現下,なっていない.未だ何ら対話らしい対話がない,という点,確認されねばならない.*4そこに日菜の一言が状況を開き,対話のある可能性が浮上している.その運めをやんわりとではあれあくまで拒もうとする千聖とのあいだに織りなされるコントラスト,その意味するところは別の紙幅をもって改めて究明されるべきであろうが,一種の緊迫感が演出されていることは確かなように思われる.

 かくて終いに,決定的な瞬間の訪れにわれわれは立ち会う.日菜によって「お泊まり会」の誘いが[9]でもって明示的になされるわけだ.千聖の最後の抵抗([10])むなしく,日菜はおのれの支配するその流れを「お泊まり会」へ確と運んでいる([11]).われわれはみた.われわれがこの場の証人である.今しも機運は定まった,「お泊まり会」は是非に開催されねばならない,と,そのように,われわれの感受(passio)もここに絶頂を迎えている.

 

2. 今回ガチャの白鷺千聖★4の名称ならびにイコンにみる,上の仄示の確証

 今のところ,われわれはひとつのことを思い切っている.「お泊まり会」は必然にして開催されるはずである,そのような仄めかしがあった,というわけだ.これはしかし,たんなる期待にすぎないのではないか,パスパレ,就中ひなちさという組に期待をかけるわれわれの,限りなく強まってはいるにしても,それでもたんなる願望にすぎないのではないか.こうした疑念には答えて言わねばならない.この仄示の蓋然性に輪をかける公式的な〈確証〉が見出されるのだ,と.

 今回同時開催のガチャでは千聖の★4が実装され,すでに一部の新人スタッフの手元になっている.その名称はまさに[お泊まり会]である.この名称をみさえすれば,われわれの誰しもが,ここに与えられるエピソードの少なくとも左側に「お泊まり会」の開かれることは必至であると確信せざるをえない.これだけでもわれわれの論証は遂行され尽くしたであろうが,もうふたつ論拠を提出しうる.

 第一に,そのイコンをみよ.日菜と千聖との,おそらく日菜の部屋と思しき部屋において戯れつく様が描かれている.お菓子があちこちに見境なく開けられているところにも明らかであるが,こうまで人目を気にしないようにみえるのは,よほどプライベートな空間であるからに相違あるまい.さらには,両者ヘアバンドで前髪をたくし上げているようにみえる点も,これが「お泊まり会」の描写であるとの認識をたすける.ストーリー・エンディングをみて,このイコンを目にした者は誰しも,メンバー内のエピソードにおいて,その続きが展開されると思わないではいられない.

 第二に,続いて,メンバー内の両エピソードのタイトルをみよ.左が「天才とは」で右が「凡人の考え」となっている.まず,ここのところに感応すべき証拠を挙げておこう.イベントストーリー5話末尾の,これまた千聖による二度の独白であるが,それぞれ前後は省いて引用しておく.*5一応先に続いて(時系列からすれば逆順となるが)通し番号を振っておく.

 

千聖:(誰のことも理解できないし,誰からも理解されない……

天才,ってそういうものなのね)[12]

千聖:(日菜ちゃんのように,誰のことも理解できず,

誰からも理解されなかったら……

そんな状況……私なら,どうかしら?)[13]

 

[12]に現れる語彙「天才」に着目せよ. ここに与えられる天才の概念は明瞭で,論旨からずれるが一言しておけば,「誰のことも理解できないし,誰からも理解されない」ということを含んでおり,この絶対性が[3], [4]の「たった1人」へと接続されているわけだ.*6そして,[13]の最終行こそ,日菜の像の千聖的形成において,そのやや独りよがりな性格を徴づけるところである.

 千聖はみずからの内奥で,独り黙々と日菜の「天才」的像をつくりあげてしまっている.このように見受けられている今,ふたたびメンバー内エピソードのタイトルに目を遣る.蓋し,「天才とは」であり「凡人の考え」である.われわれの心の眼差す先にどのような眺望が拓けていたかを振り返ろう.エンディングの次第を看取した矢先,さて,[お泊まり会]なる名称で,上に確認したようなイコンの据えられたメンバーのエピソードに,「お泊まり会」的描写の当然続くべきを念じている,いや,念じる他なくそうしている.ここに,エピソードのタイトルが上のごとくある.特に期待のかかる左側に,鍵概念たる「天才」の二文字が躍る.*7ひなちさの対話が展げられているとしか思えない.明らかにそうである.そうでないとわれわれを説得する証拠もひとつだに手にしていない.「凡人」というのはさしあたり「天才」と対をなしているがゆえに置かれているのだろう,と思い進む.ここでもきっと,何らか示唆的な情景がみられるにちがいない.

 われわれは今,明らかな真理の前に佇んでいる.至福のうちなる真理の観想を目前にしている.そのように思うほかにはありえない.いくつもの論拠が,別の可能性を塞いでいった.そういうところまで昇りつめ,来ている.事の序でに運ばれて,来るべきところにこそ来たったのである.いよいよ,全き光に浴する,その覚悟は整った.

 その後,われわれがどのようなものをみたのか,いまここに繰り返して述べるまでもないであろう.

 

「お泊まり会」の無いことから帰結する問題

 結果を報告すれば,「お泊まり会」などなかったし,後日談すら語られないで終わったのである.*8ここから帰結すると思われる問題をいくつか挙げておこう.

 

1. 千聖への誤解の源

 問題の第一は,このような事態によって,千聖に対する誤解が生じかねない点にある.本来なら,事の順序の要請に従って,──つまり,われわれの個人的な感情を超えた必然性において──,お泊まり会があらねばならなかった.そのことは上でくどくどと論証されてきたところである.そこで,千聖は日菜と対話し,みずからの日菜像を練り直し,ひなちさの未来へ向けて,前途明るい道ゆきの新たな一歩を踏むはずであった.それが,一体全体,どうであったか.

 その上で,今回の件によりしばしば千聖に浴びせられる〈誤解〉とは何であるのか.一人の人格としてある千聖があたかも,一方で内心において日菜の像を独り捏ね上げつつ,他方でそれそのままに,日菜との対話の介することのない,未成熟の日菜像を維持してしまっているかのようにとらえる,そのような種類の見解こそそれである.*9ここで,エンディングの属する系列をA, そこの千聖千聖[A]とし,同様に,エピの属する系列をB, そこの千聖千聖[B]としておこう.こういった種類の見解が誤解といわれねばならないのは,2系列A, Bが同一であり,千聖[A]が,あたかも千聖[B]と同一系列上にあるかのように考え,そこに同一の系列の時間的な様相の異なりしか認めていない点においてである.系列Aは,お泊まり会へこそ続いていなければならない.数々の証拠が挙げて,お泊まり会の存在を支持している.その状況にありながらのあれらのエピである,エンディングとは全く別個の系列に属していると考える他ない.時点の上で考えるなら,われわれにとってはエンディングが系列Aの末項であり,エピが系列Bの初項であって,両者のあいだに先後関係がある以上,AとBとの間にも先後関係がある.*10もしA, Bがたんに先後関係にあるだけの,真には同一の系列であるならば,先後のあいだに接合の部分がなければならない.ところで,この接合部分は,いかにして考えても,お泊まり会を含むものでなくてはならなかったであろう.しかし,お泊まり会は存在しなかった.かくて,2系列A, Bはあくまで区別される異なる系列であることになる.つまり,エンディングからエピへの,一筆書きの連続性は認められえないのであり,ここにはただ断絶のみが認められるべきである.

 別の仕方で簡単にいうならば,系列Aは,その見えにおける末項つまりエンディングよりじゅうぶん後の時点 t にお泊まり会が存在すると概念される以外にない系列であり,系列Bはしかしながら,その見えにおける初項つまりエピの前を時点 t まで遡求されようと,それまでのどこにもお泊まり会は存在しないと概念される以外にない系列であるから,これら2系列が同一の系列の時点の順におけるたんなるヨリ先(prior)とヨリ後(posterior)との表現であるとのみ理解されることはありえない,となる.千聖[B]は,千聖[A]とはどこか別の世界の住人であるとしか概念されない.*11そのように奇妙なことのあるものか,と嗤うひともいるであろう.そう嗤うひとのほうこそ,みずからの不明を愧じるがよい.そのように奇妙なことが現に出来している,それをここでは論断したのであるから.

 千聖[A]も千聖[B]も千聖の限りで千聖であるから,それをもって千聖千聖として連続させて判断するのも誤解とは言い切れない,と,苦し紛れに主張されるかもしれない.そのような判断の不可能なことをいま論証してきた.お泊まり会の存在が宙に浮いた状況にあって,本来そこでなされるべきだった対話なり日菜像の洗練なりの不在の責めを千聖に帰すことは理不尽の極みであるというほかない.たしかに千聖[A]は仮にこのまま時間を過ごせば当然お泊まり会を経て日菜と対話したであろうが,時点的に後の千聖[B]はお泊まり会などさらさらないところに生きてあのようにしているのであるから,そうはならなかったのである.理解の未熟な段階から成熟した段階へと,ひとは理解の熟度を漸増させてゆく.理解の未熟な段階があること自体は何ら責められるべきではない.理解のまさに成熟すべき機会を,千聖は奪われてしまった,と結論されねばならない.この方を責める権利をどこの誰が持ちえよう.*12

 

2. ひなちさの前途の或る道筋の消失

 そして第二に,これはひなちさの前途の一筋が,しかも善い道筋が,閉ざされた,ということでもある.お泊まり会という絶好の機会のあるべくして遂になかったこと,これはひなちさの今後についての,この件に限らない絶大な不安をわれわれに植え付ける.これほどの好機がなぜ逃されるに至ったのか,想えば思うほどにわからなくなる.

 

3. メンバー内の不整合

 第三の問題としてわざわざ挙げるまでもないにしてもきわめて重大なのは,メンバーの名称ならびにイコンとエピとの不整合である.この不整合は,ストーリーとの関連の文脈を脇においてそれだけ独立に取り出されても,かなり致命的な問題であるというほかない.(27/2/2018追記)

 

4. 回収されようのなさ

 第四には,これも第三の問題の裏面といえるものである.ここまでその必要を論じてきたお泊まり会は,あくまでわれわれにとっての「お泊まり会」であった.つまり,開くなら:エンディングで,すなわち,リリイベ直後の夕方,日菜によって千聖に対してその誘いがかけられたところの,氷川家において開かれることになっていたであろう,お泊まり会,これである.ところで,第一の千聖の名誉の問題にせよ,第二のひなちさの今後の問題にせよ,それはそれとして〝別途〟挽回のチャンスを想定することはいくらでもできる.しかしながら,われわれの「お泊まり会」そのものに限っては,此度回収されることのないままに終わった,というそのことが決定的に問題であり,その問題の問題性はいかにしても揺るがしようがない.われわれの「お泊まり会」は,事の運びからして,メンバー・白鷺千聖★4[お泊まり会]で開催される他にはなく,もはや未来永劫回収されようのないものというわけだ.後日ほかのお泊まり会があるにしても,それはわれわれの「お泊まり会」ではない,別のお泊まり会になってしまっている.空いた穴が塞がるということは今後ありえない.*13(27/2/2018追記)

*1:以下,基本的に約めてWWWとする.

*2:バンドリ!ガールズバンドパンティ!内,イベント(2018年2月19日から同月26日まで)〈What a Wonderful World〉ストーリー・エンディング「みんながいっちばん面白い!」より引用.

*3:いま,われわれは,千聖の日菜に関して想うその想いじたいの当否には頓着しない.今回の行論とは本質的に関わらないからである.その問題と今回の問題とのあいだには区別を立てることができる.とはいえ,全く不要の問題と片付けるわけにもいかないであろう.われわれの立場と全く重なるか否かはさしあたり留保するにして,とりあえずこの点に関する考察のひとつとしては,hegemon氏の記事「白鷺千聖の天才観および氷川日菜理解について」を参照せよ.われわれじしんの立場は,よしそのようなものがあるにして,他日の論に譲るべく残しておく.

*4:「対話の有無」に関して,hegemon氏の上掲記事の議論はわれわれと同じ点に着眼している.

*5:上掲イベントストーリー5話「あたしはあたししかいない!」より引用.

*6:ところで,hegemon氏の上掲記事では,孤独性の論定に至るまでのこの過程が省略されている.議論の不備とまでは特に思わないものの,以てとりあえずの指摘と易えさせていただく.

*7:「天才とは」とある.「とは何か」「とはどのようであるか」等々,この止め方は,天才概念の規定を求める問尋ねの形式を示している.いや,天才概念に不服のある側からすれば,既存の規定の更新をこそ,ここに求めうると思うことであろう.

*8:そのかわりに何があったのかは,今一度これらのエピソードと向き合う心構えのなお成らないわたくしには説明することができない.それに関しては,さしあたり,上掲のhegemon氏の記事を読んでいただくか,直にご自分でエピソードを開いてみていただきたい.

*9:見解の持ち主によって多少のヴァリアントはあろうが,概ねこの点は骨格として共通しているように思われる.

*10:時点の上の先後関係は,リリイベへの言及から確かめられる.左エピの場面は,リリイベ後の或る時点でのレッスンルームであり,エンディングの後であるとより以外には考えようがない.

*11:お泊まり会は実はあったのだが,記されていないだけだろう,との反論がありうる.そのような言い分は空虚である.お泊まり会の記されるべく,事の運びがこれだけ設らえられていながらにしての状況で,現に記されなかったのであってみれば,それは存在しなかったのと同じことだというしかないであろう.

*12:ここでの未・成熟は,正否とはさしあたり別の評価方式である.

*13:もちろん,たんに回顧的に描くことによっては擬似的に回収されうるかもしれない.とはいえ,それでも第三の問題は解消されないであろう.この傷跡はいかにしても消え切らない.

氷川日菜による対他分析に関する覚書き

【注意】ツイッターにざっと書いたことをひとまずまとめたノート.資料用.現状のものとしても comprehensive でも complete でもないであろう点,ご留意を希います.誤りや補うべきことがあれば,どうぞご指摘ください.

 

 氷川日菜が他人を不思議がり面白がることは(ガールズバンドパーティ!内の世界の時系列に従って)Pastel*Palettesのバンドストーリー第9話以来周知のことである.2018年2月のイベント「What a Wonderful World!」はまさしくこれが一大テーマであったわけだ.*1とはいえ,他人を面白いとかわからないとか不思議だとかいうのは,それだけでは茫漠な印象にすぎない,といううたがいが,われわれ新人スタッフどものほうに生じるのも,故なきこととは言えない.煎じ詰めてはどういうことなのか,もっと規定してほしい,と思うのも正当なねがいであろう.

 それでは,日菜自身はもっと明確な言語化を与えていないのか.一部のキャラクタに対しては明らかにしている.少なくとも現状,姉・氷川紗夜,パスパレの白鷺千聖,丸山彩の3人について,いずれもカード内エピソードを通じて知ることができる.興味深いのは,いずれにおいても彼女が自身との対比の上でこれら3人を語っていることであり,だから,その語りには彼女自身の自画像が映じていることである.その語りを整理して挙げると:

 

①きちんとしたひと:紗夜(★3[だいたい分量通り]右エピより)
②努力の積み上げができるひと:彩(★3[未知数の存在]左右両エピより),千聖(★2[表舞台の裏側]右エピより)
②′いくら努力してもできないひと(ポンコツ):彩(同上,「ポンコツ」の明言は右エピ)

 

 このうち,「自分には努力の積み上げができない」という理由から「わからない」とまで評されるのは②,なかでも「わからなくて,かつそれゆえに,おもしろい」という種類の評価を与えられるのは,その系である②′に限られる.

 それぞれとの対比で日菜が自己を振り返るところをみると,①で紗夜をしっかり者と評するときにはみずからを「大雑把」といい,②については「努力の積み上げができない」ということをいっている.いずれに関しても,「それでも大体のことはできてしまう」という旨のことを添えている.これらを総合して得られる日菜の自画像は「大雑把で,努力の積み上げはできないが,それでも概ねのことを満足にこなす」といったところであろう.

 今回のイベントで千聖のなかでの日菜観が問題になった.*2だから日菜側の千聖に対する想いについても一言しておこう.②がいわれる点の限りで彩と千聖とは同類であるから,彩についてしか言われていないこと②′をここから差し引けば,千聖についての想いとなるであろう.②′の否定は「努力すればきちんとできるようになる」といったところだろう.*3「努力の積み上げによっていろいろのことをこなしていくことができる」という像が,日菜によって千聖には割り当てられているように思われる.*4

 これまで3人の主要キャラについての日菜の想いを調べた.それに対しては余談だが,「わからなくて,かつそれゆえに,おもしろい」という,第一に彩に与えられた評価は,リリイベで接触したファンやそこから得られる一般的な他者像にもあてられるものでもありうるのかもしれない.とはいえ,この際,それがいわれる側面として,能力の面を離れてしまっていることには注意しよう.

 感想として,日菜についてしばしば描かれる「他人のわからなさ」というのは一般にはだいぶ抽象的に(少なくともわたくしには)みえて,何についてどういう意味で言われているのか判然としないところがある.努力の問題とかに限られるならまだしも,今回のイベントストーリーはその抽象度を無駄に上げてしまったのではないかと危惧している.個々のキャラクタ3人については仔細な分析を与え,「わからない」という場面もそれなりに限られていることに鑑みると,たんなる漠然とした印象としての「わからなさ」は今3人について挙げてきた態度とどう連続するのか,正直理解できないと白状しなければならない.

 それから,千聖の日菜に対する見方の稚拙さが問題になった.それはそうなのかもしれない.とはいえ,日菜が(他人との対比を通じた仕方であれ)自己を多く表現するのは,基本的にカードの右エピに,つまり概ねは,新人スタッフへの(ほぼ独り)語りに限られている.こうした詳細な語りを語られる相手として,実は新人スタッフは特権的な地位にいるということである.われわれは,この特権性についてそれなりに自覚的でないといけない.われわれには見えている面が,どれくらい他のキャラクタに見えているのか.その点にも慎重である必要があるように思われる.

 

*1:これについてはいちおう,前回の記事に試論のひとつめを書いた.

*2:わたくしは白鷺千聖の免罪を主張する.

*3:むろん,論理的にはこのような否定の操作は許されていない.あくまで色々の文脈を考慮すると,こういう話が対比して念頭に置かれていたのだろう,ということ.

*4:この点,紗夜にも同様のことを思っているのかもしれないが,紗夜の努力家的側面を日菜がどのくらいみているかというと,よくわからない.几帳面なところとどう重なるのかも含めて,要熟考.

教養──「What a Wonderful World!」論の第一部

Tractatus de « Quam mirus mundus! », pars I.

 

 2月19日午下りより開始され今なお継続中のイベント「What a Wonderful World!」(公式英題,以下ここから略称してWWW)云うなら「なんと不思議な世界かな」(拙訳の仮の邦題)のストーリーについてわれわれは論じる.事柄を掴まえるためにわれわれの扱う問題を絞る.氷川日菜(以下日菜)ならびにその白鷺千聖(以下千聖)との組(以下「ひなちさ」と名称する)をめぐる問題である.むろん,このイベントストーリーの中心主題は他にもあると信じる.しかし,順位の重みをつけるなら,第一に日菜という人物が,第二にひなちさという組が論じられるべきである.本小論においてわれわれは,日菜の教養というモチーフでストーリーを大まかに要約してとらえようと試みる.

 ひとまず,イベントトップ画面について注意を与える.それが本ストーリーの日菜的摘要を伝えるように思われるからである.まず,WWW云うなら「なんと不思議な世界かな」というタイトルに注意する.感嘆文の形式を有している.そのなかにみられる語彙として「不思議な wonderful」そして「世界 world」が取り出せる.次に,日菜のイコンに注意する.口を広げながら,目を見開いて何らかを凝視し,みずからを指差している.

 この2点を確認して本ストーリーをまとめあげよう.「なんと不思議な世界かな」と感嘆の趣きで発する主体は日菜である.*1或る驚きが彼女をしてかく表情せしめる.その視線の向かうところ,他者一般といってよく,他者というその鏡に映されたみずからの像に気づく.他者は驚きに満ちており,みずからも驚きに満ちている.他者とみずからとの総体としての世界はかくて驚きに充ち満ちた相貌をみせるのであり,その限りで不思議(wonderful)といわれるのである.他者と出会い,それに驚き,そこに他者からのみずからへの驚きをも認知し,世界のありさまを知る.

 他者と出会い,他者を知り,そのなかで自己を知り,他者と自己との或る調和を得る.*2その方向性の限りにおいて,本ストーリーは日菜の教養(Bildung)をしるすものであったといってよいであろう.*3

*1:尤も,日菜的色彩を伝える表現に替えるなら,「世界って,ふしぎー!」とかになるのかもしれない.

*2:この過程の始まりにくる〈他者との出会い〉はその濃の程度をさておきこれまでにもありえたが,さしあたりその始動的役割の資格において第一であったのは,Pastel*Palettesバンドストーリー9話における丸山彩との会話である.つまり,この意味で第一の他者は彩であった.それを〈他者の知〉という認知の段階へと引導したのが大和麻弥であったことは,まやひなの注目度の上がる今,自明でありながらも改めて注目されるべきである.ここからさらにいうならば,第一の他者の知から他者一般の知への移りゆき,それによる自己の像の結実,世界の理解の獲得,といった過程が本ストーリーの特色をなしている.

*3:彩という他者を知るに際して麻弥の果たした役割がここにおいては見られず,代わりに第一の他者たる彩の言葉によってこそ他者一般の理解へと導かれた(5話)点は特筆に値する.そして彩の言葉はあくまでヒントであったにすぎず,そこから後ろのステップへと行き進んだのはみずからの気づきによってであった.本ストーリーが教養という概念でまとめられるとわれわれの考える理由である.

水を得た魚のように──氷川紗夜メモ

 前記事2本では恨み節が強く出すぎたので、今回は抑制する。

 氷川紗夜の本質は「誰しもできることが誰よりもできること」にあると以前述べてみた。とはいえ、これはいわば土台を手に入れたにすぎない。氷川紗夜の人物像を彫り出すには、もっと精細な観察が必要になる。

 今回はメモ書き程度である。話はシンプルで、氷川紗夜にとってRoselia(わたくしはこれを「ロゼ」と略すことにしている、以下そうする)は重要であるというに尽きる。魚にとっての水がそうであるように、氷川紗夜にとってのロゼは、みずからのエレメント、棲処(Element ; élément)である。当然、バンドストーリー2話に端を発するゆきさよの考察が要請されるわけだけれど、わたくしはまだこれを熟考していない、ということも記しておく。今後の課題である。

 エレメントに足らないから、ロゼの前にいたバンドは合わなかった。「考えが一人だけ違う」と言われてしまう。ここにあるのは優劣ではない。バンド活動において目指されるものが異なることはある。地と海とを比べて、どちらが優れているということはない。どちらかにしか住めないものどもがいる、というにすぎない。紗夜はロゼというエレメントを得る。魚が水を得るように。

 ロゼのなかで紗夜はみずからの役割をもつ。ファストフード店の燐子との会話で、ネトゲの話になる。燐子がネトゲの魅力を「みんなの力になれる」と表現する。紗夜はその点をとらえて、興味を示している。「みんなの力」、もっといえばロゼのみんなの力になる、そういうことに彼女の関心はあるのだろうか。このような関心の具体的な顕現は、さよつぐのイベントストーリーにおいて明らかにみられる。適材適所。水を得た魚のように。

 とはいえ、バンド活動の目的(と紗夜の思うはずのもの)にとってがんらい付随的なものでしかないお菓子作りに積極的になる点にせよそうであるが、この場所に馴染んでいるだけでなく、馴染みつつ彼女自身も変容している面があるわけだ。このあたりの事情も少し考える必要がある。とにかく時間がない。

 

誰しもできることが誰よりもできること──氷川紗夜雑考

‪ 氷川紗夜という人物の本質を一言で言い表すなら、「誰しもできることが誰よりもできる」といったところになる。‬この点を外した氷川紗夜の諸々の人物評(を装う何か)*1は端的に言って無意味であるとわたくしは考える。

 ‪なるほど、紗夜はもしかすると、誰でもできることしかできないかもしれない、そのことを裏づけると思しき描写も見つかるのである。いうなら、「教科書的」である。しかし、誰でもできることしかできないことは、卓越していることの妨げには必ずしもならない。‬誰でもできることしかできないことは、必ずしも無能を意味しない。

 可能的に in potentia できることは、だからとて、現実的に in actu できるわけではない。あらゆる人間的無能はこれに起因するといってよい。たとえば、試験問題はすでに学び終えた範囲のことで解けるようにつくられている。当該範囲を学び終えたひとは、──出題者側のミスを考慮しなければ──、原理的には解けなければおかしい。しかも、論理的能力に問題がなければ、あとはごく基本的な知識の組み合わせで解けるようになっているのである。しかしながら、実際には、この最小の条件を満たしただけですべてできるようになるひとは稀である。ひとつふたつできない、どころではなく、ほとんどできないのが通例である。

 教科書を読んだだけでそこに書かれていることのすべてに習熟するひとは少ない。まして、試験に応用するのは難しい。目で追って知的に理解しただけで、そのことに習熟できるわけではない。他人の書いたものを丸っと記憶するだけで、自分の血肉になるわけではない。

 習熟には一定の習慣づけ habitus を要する。反復に反復を重ねる。教科書を読んだだけで教科書になれるわけではない。みずからそのものが教科書になるための所作が求められる。しかるに、不完全性を完全性に転じる力は、理性 ratio というかたちでわれわれの各々に均く内在している。故くから、ひと homo は理性的な動物 animal rationale として定義される。にもかかわらず、理性的なひとはなべて稀である。

 氷川紗夜は理性のひとである。理性の照らし出す道を歩んで進むことができるひとである。道を踏みはずすことを惧れるからこそ、精確さを期する。時に厳密の精神が個性の自由な跳躍を妨げるとしても、そのこと自体が卓越性を損なうわけではない。誰しもできることができるひとは少ない。誰しも可能的にはできることを誰しもが現実的にできるわけではない。あれができてもこれができない、このようなことが普通である。それを普通だと思って愧じることもなく生きながら、凡庸な個性を独自性と思い込み、それと気づくこともなく死んでいく。衆生 vulgus の生き方とはこのようなものである。

 不完全性を完全性に、不得手を得手に易える。不出来を克服するためには、不出来を知らなければならない。いま、「不出来を知る」といった、その「知る」とはどのようなことであるか。不出来の所在、実相、由因を知る、このように「知る」。数学の試験で80点を取ったと知ることは、それだけではこのような「知る」の要件を何ら満たしていない。或る問題が解けなかった、このようにして不得手の所在を知る。それは解答のステップに本質的な誤りがあったのか、計算ミスをしたのか、それはともかくとして、こうして実相を知る。どうしてなのかを尋ね、今回与件を誤って解したとか、定義や定理の理解が甘いとか、日頃の演習が不足しているとか、由因を知る。

 不出来にも、それが知的把握の対象である限りでは一定の構造がある。この構造をとらえることで不出来をみずからの知のもとにおく、ここに至らなければ不出来を克服することは成らない。おぼろげな苦手意識は苦手を取り払う助けには決してならない。何かを解決するためには解決すべきことを知っていなければならない。闇雲のなかを歩んでも、むろん、時にまぐれ当たりはありうる。しかしそれは方法的でない。今回は当たっても次回に当たるとは限らない。そのような運任せを乗り越え、女神フォルトゥーナを飼い慣らすためには、方法 μέθοδος が求められるべきである。方法、いうなら、途を追うこと、その第一歩はまず対象の知的把握によって開始される。

 不出来を知り、それを一定の方法のもとに出来へと易える。そして、それを習慣づけの努力によってみずからの態勢 dispositio とする。かくてひとは諸無能を諸有能へと転換する術を持っている。すべては理知の力に拠っている。氷川紗夜はこのことを知っている。困難に直面したとき、それを乗り越えることができないとき、「なす術がない」という形容をする。方法がない、ということである。方法を案出すればよいのに、できない。方法の案出ということさえも、それじたいが反復によって習慣づけられ、みずからの精神に馴致されていなければならない。精神の教練 disciplina の足りないひとには、いざというとき、この自分すらも手を差し伸べてくれない。

 誰しもできることは、多くの人にとってはできないことである。偶さか、あれやこれができる、というひとはたくさんいる。与えられた境遇のなかで多少優れているひとはいる。とはいえ、そこに止まれば、当然そこ止まりである。その程度の何でもない、ありふれた有能さには慢心も満足もすることなく、人間的な無能を冷淡にみつめ、理知の杖のたすけによって、ひたすらに完全性の諸階梯を登ってゆく、氷川紗夜というひとの高貴さや美しさはここに存している。それを教科書と呼ぶなら呼ぶがよい。問題は、その先にこの nobilitas, virtus, pulchritudo, et cetera を見出すか否か、である。注意して事物をみつめることなく、本質から目を逸らし、地を天と取り違えて見下げ続ける、そうしたことごとをみずからに習慣づけてしまった、腐敗した魂の持ち主には、このような高次の至福の享受が許されるはずはない、これもまた事理に即している。

*1:ここで呪いの対象にしているのは、何よりも、氷川紗夜の凡庸さを殊更にいいたてる下品な論評の数々である。知性の眼の曇った人間は、まこと、みずからの真上を見上げることを能くしない。連中は、水面に映った月をみながら、あたかも太陽をみているかのようなことを言い張るのである。

「カプ戦争」なるもの

 文脈はよく存じ上げませんが、どうも、さよひな・さよつぐの両カプを対立させようとする向きがあるらしいのです。そしてそのような対立の措定それ自体を「カプ戦争」と名づけるものらしいのです。百合にはいっとう疎いのでこれまたよく存じ上げませんが、このような操作と命名とは一般的なものなのかもしれません。しかし、この件に関していうなら、わたくしは強烈な違和感を覚えます。

 わたくしはこれから他人を、穏やかな口調は心がけるにせよ、批判いたしますので、みずからの立ち位置を多少詳らかにしておくべきことは、理の上で当然の要請でありましょう。そして、読み手のバイアスを排するためには、必要最低限の措置でもありましょう。

 まず、わたくしはさよひなをメインにしているつもりで、さよつぐはイベントストーリーを追った程度でしかありません。このことをまず自白しておきます。加えて、さよひなにしても、できる限りでは力を入れているという程度で、たとえばキャラクターエピソードにしても手に入っていないものに関しては開けていない場合が多々あるわけですし、そもそもゲームである限りでのガルパに対する金銭的な投資は全体としてほとんどなしておりません。さらにいえば、さよひなにしてもさよつぐにしても、紗夜ひとりへのシンパシーを軸にして眺めている面がかなり大きいので、日菜やつぐみのほうからの視点をどれほど勘案できているかでいえば、さほど自信がありません。

 この程度の「本気度」でありますからして、かく述べました以上は、わたくしに与えられる発言力は相応のものになったでありましょう。その上でなお、「カプ戦争」などという発想がどこに端を発しているのか、わたくしには全く謎であると述べる他にいたしかたがありません。

 「カプ戦争」というジャーゴンは、どこかに定式化されているわけでもないようですが、わたくしの調べる限り、基本的にはどうも

 

・二つないしそれ以上のカップリングについて、各カップリングの推し手どうしが、対立すること

 

を指しているようです。しかし、これだけでは「何をテーマに」対立するのか不明瞭でしょう。そして、それはおそらく

 

・それぞれのカップリングの、何らかの価値的序列をめぐって

 

とでもいえばよろしいのでしょうか。すると結局、

 

・二つないしそれ以上のカップリングについて、各カップリングの推し手どうしが、それぞれのカップリングの、何らかの価値的序列をめぐって、対立すること

 

これが、カプ戦争なるもののひとまずの定義でしょうか。なるほど、或る種のファンが形成される領域において、これと同じような構造の対立が看取されるのでしょう。あのキャラよりこのキャラ、いや、このキャラよりあのキャラ。あの作品よりこの作品、いや、この作品よりあの作品。一瞥して明瞭なように、対立は比較の構造をとります。したがって、かくのごとき定義から、「カプ戦争」が「勃発」するためには、少なくとも下の3要件が満たされるべきであるといえましょう。

 

①2つないしそれ以上のカップリングが存在し、
②これら各々が何らかの仕方で或るひとつの価値的秩序に属すると概念され、
③その上で、これら各々が上の価値的秩序において優劣の比較的関係にあると概念される

 

 立ち戻って、さよひな・さよつぐについて論定しうる地点に到りました。①は問題ありませんでしょう。さよひなとさよつぐと、2つのカップリングが実に存在しています。②はどうでしょう。みなさんはいったい、どの基準でこれらをたたかわせようというのでしょうか。基準がなければたたかいは起きませんでしょう? そうならば、何もない、などということはまさかありませんよね。しかし、さよひなとさよつぐとを争わせようという人々が、それらしいものを挙げている様子をわたくしは皆目みつけられませんでした。

 基準はてきとうにとっても仕方がないのです。ふたつをそのふたつなりに比較するに相応しい基準でなければ、まるで評価のていをなしませんでしょう。まあ、「尊い」と想うその想いの度合いの大小、などであれば、めいめい勝手にこころのうちで想っていればよろしいと思うのですが、今度はまるで公共性に欠けていると申し上げる以外にありません。他の人が受け入れる必要もありません。まさか、そのような公共性も考慮せずにみずからの基準を他人に押し付け、相手の読みの浅さをバッシングする、などというはしたないことは日頃されていないと思いますが。

 わたくしは、②をみたせるひとつの基準を概念できると考えています。どちらも紗夜のカプであるというその点です。しかし、紗夜のカプである限りでのさよひなとさよつぐとは、相互に補完的であり、何も衝突する必要を見出せません。よって、この場合でも③を満たすことはないと思います。

 各々のキャラクターの性格やカップリングの関係様式に負荷をかければかけるほど、あらたな「基準」が見出され、たしかに、そのような比較や対立は容易になることでしょう。しかし、多少なりとも虚心坦懐に与えられた条件を読み、踏まえる、という仕方でなくして、どうしてそのキャラやそのカプの独自の意義を見出してあげられるのでしょう。あらゆる二次創作はそのような誠実さの上に成り立つのだとばかり、わたくしは思ってきました。せっかくの素材を揣摩と妄想とのちからで押しつぶし、それをどう料理して楽しもうというのでしょう。わたくしには何も理解できません。はたして、「カプ戦争」の起こる余地、起こす意味など、どこにあるのでしょう。ご存知なら、今すぐにでも教えていただきたいものです。百合オタクの方々は、諍いや対立を好み、みずからの武勇を示すことに心を砕いているがために、不要の擬似問題をたて、「戦争」を粉飾する、ということはよもやあるまいよな、などと、わたくしの不審に想うこの想いが、一刻もはやく取り去られるように。

 

 

お菓子教室のイベントストーリーをみた

 Copulae principalissimae Saionis dantur dupliciter : « Saiohina » scilicet et « Saiotugu .» nempe istae duo, quatenus in specie Saionis rationis, mihi videntur invicem complere. atque ego quidem adhuc illam solum amabam, tandem autem iam ita incipio nosse potentiam huius, ut altius etiam illius virtum intelligam.

 紗夜の最主要のカップリングはふたとおり与えられている:すなわち、「さよひな」と「さよつぐ」とである。蓋し、これらふたつは、紗夜の性格という相における限りで、相互に補完しあうように、わたくしには思われる。かくて、わたくしは、といえば、なるほど、これまで前者をのみ愛好してきたのであるが、ついには、しかし、いまや後者のポテンシャルを知り始め、以て前者の力をも一層深く理解するのである。