Notitiae vix notandae

タイトルのとおり。知られる必要のほとんどない知見を書いていきます。

お菓子教室のイベントストーリーをみた

 Copulae principalissimae Saionis dantur dupliciter : « Saiohina » scilicet et « Saiotugu .» nempe istae duo, quatenus in specie Saionis rationis, mihi videntur invicem complere. atque ego quidem adhuc illam solum amabam, tandem autem iam ita incipio nosse potentiam huius, ut altius etiam illius virtum intelligam.

 紗夜の最主要のカップリングはふたとおり与えられている:すなわち、「さよひな」と「さよつぐ」とである。蓋し、これらふたつは、紗夜の性格という相における限りで、相互に補完しあうように、わたくしには思われる。かくて、わたくしは、といえば、なるほど、これまで前者をのみ愛好してきたのであるが、ついには、しかし、いまや後者のポテンシャルを知り始め、以て前者の力をも一層深く理解するのである。

 

氷川姉妹研究ノート I-2 説明能力ということ(附:丸山彩と氷川紗夜)

I-1 の続きである。*1やや別の話になっているかもしれないとはいえ、こちらのほうが実質の中身をもつと信じる。*2

 

日菜の説明能力の欠如

 ゲーム中、パスパレのバンドストーリー9話に、重大な示唆がふくまれている。周知の通り、丸山彩の出来のわるさを理解できない日菜がそこにはみられる。*3それだけか。続きをみよう。何をすればそのことができるようになるのか、そのことができるとはどのようなことか、説明のできていない日菜が現れてくる。そこに大和麻耶が介入してくる。麻耶の論説によって、他人をみいだしておどろく、そのような日菜が現れる。自分と他人とは異なるのだ。自他の区別が日菜の上に(おそらく、少なくとも本格的な仕方では)はじめて生じる。彩がわからない。他人がわからない。そのわからなさの因るところをわかる、そういった場面である。

 自分と他人とは異なる。他人への説明というものは、一般に、この見地に立ってなされる。自分と同じなら、説明の必要も生じない。何かの条件が異なるから、そこではじめてギャップが生じて、説明も求められるのである。9話時点の日菜には、そういうことがまったく理解できていないようにみえる。説明の意義を理解していない。そもそも自他に区別がついていないからである。

 たとえば数学で、結果だけ書かせる単純度のきわめて高い計算問題は難なくこなすものの、証明問題の解答など、放っておけばろくな記述にならないのではないか、と思われるのである。こういった勉強科目については、一定の訓練のもと、一定の指摘が与えられる、いうなれば型が存在しており、それに倣うことを求められる機会があるので、或る時期まではきちんとできず、その後できるようになった、そのようなことがあるのではないか。あるいは、なんとはなしにその型には沿っておく、そのような態度をとっている可能性も、他方で、あるのではないか。従ってはおくが、なぜそのようなことをしなければならないか、ということまでは、他人が「わからない」のだから、自他の隔たりというその原因が「わからない」のだから、「わからない」。そういうことも、ひょっとして、あったのではないか。*4

 

 氷川紗夜と丸山彩

 いま、一瞥で、彩と紗夜とが同じ努力家ジャンルにあるとして、しかしその差異を見定めようとするならば、彩には努力をする際のメソッドが(少なくとも、或る部分については、或る時期までは)欠けており、紗夜にはそれがある、と、ひとまず言えるのではないか。私にはそう思われている。*5

 パスパレ・バンスト9話の、先ほどと同じ箇所をもう一度みたい。注意を凝らす者は誰であれ、日菜の、どうしてできないのか、という質問に対して、「ごめん」と〝答え〟てしまう丸山彩の姿をそこに認める。私の知る限り、このような問いに対して、全く答えになっていないしかたで謝罪を述べてしまう、というのは、典型的な「できない子」であることを白状しているようなものである。なぜできないのかを、彩自身がわかっていない。探ってみて、おおよそこのあたりのところに問題があると思った、とか、その類のことを、──たとえ間違いでもよいから──、述べる、ということを放棄しているようにしか思われない。

 彩は夢に向かって努力をする、そのような公式的見解を覆す証拠は何らあるまい。そして研究生時代の自主練をパスパレの練習現場に導入したのは他ならぬ彩である。とはいえ、それは研究生時代に「教わった」から身についているというにすぎない。*6

 対して、紗夜はどうか。「教科書的」としばしばいわれるところの彼女の能力は、そのいうところを返してみるなら、誰にでもできるはずのこと、できて当たり前のことはこなしている、ということである。独創性に興味がない、とまでいうと当たらない。「自分たちだけの」という形容にこだわる紗夜を私たちは知っている。*7独自性をひたすらに追求する、ということの基礎には、何がないといけないか。誰もができることは、当たり前にできなければならない。独自性の前に平々凡々の研鑽が必要である。このようなことを、たんにこの種のフレーズを口で軽々しく唱える以上に、真に意識できているひとは少ない。おそらく紗夜は、きちんと意識できている。だから、日々常人のなしえぬほどの研鑽を積んでいるのであろう。

 紗夜をただの努力家と区別するのは何か。今いった意識はそのひとつのメルクマールであろう。それ以外に、メソッドのあることと先にすでに述べた。教科書的、ということのいまひとつの意味は、型がある、ということでもあろう。ひとつの型を身につける、定石をしる。これをメソッドの在り処とみて、何ら不都合を覚えない。先人の来たった、その同じ道を追う、ということである。*8

 また別のところ、ライブ後の会話で、白金燐子に向かって述べていることがおもしろい。こう述べる:「いいライブでした。……でも、満足するのは早いわ。改善すべき点を見つけて、早速、練習に行きましょう」(引用内下線は引用者による)。いいライブだった、と一旦肯定した上で、満足せず、改善すべき点を見つけよう、というのである。いいライブ、と評価するためには、まず一定の基準がなければならない。その水準は満たした、と判断しなければ、このような言い方には至らないであろう。さらに、そこに満足するのは早い、つまり、その水準はクリアしたけれども、そこに歩みを留めずにおこう、というのである。そのために、改善すべき点を洗い出そう、といっている。こういうのは、いまおかれていた基準からすれば、目立った問題点が見出されていないからであろう。そうであれば、みつけるまでもない。見出されていないから、見出そう、というのである。そのためには、いまおかれているのよりも高次の基準、いま用いているのよりも目の細かい物差しを採る必要がある。特定の基準をみたす [i]、その基準に留まらない [ii]、より高く新しい基準をおく [iii]、その基準から問題点を洗う [Iv]。i から iv を繰り返すことで、いわば螺旋階段上にレベルアップしてゆく。そのような方式をよみとっては、よみとりすぎであろうか。

 

 想い

 今回も根拠薄弱なままいろいろ書いてしまった。そもそも全体として何を言いたいのかじぶんでもよくわからない。「研究ノート」というのは書き散らしてもいいという意味でのタイトルである。別の根拠を持ち出して反証してくれるひとが出てくれれば話が盛り上がるし、アイディアとしてでも大事にしてもらえるなら、いつかこれを補強する証拠がみつかるかもしれないし、或る程度は気楽に書いている。今回は、附論のほうが長くなってしまったのも、よくわからない。氷川紗夜への想いが強すぎたのかもしれない。

 紗夜さんは実のあるかたちで努力ができるタイプです。学問的な能力は、ガルパの他のひとに比べても高いほうではないかと思うのです。ですから、いまは日菜ちゃんが近くにいて気がかりでしかたないかもしれないけれど、大学に進んで(唯一の、ではないにせよ)そこに適所をみつけられるとよいな、と祈念するばかりです。

 コメント等いただけたら勉強になりますので、気が向いたかたはぜひよろしくお願いします。

*1:どう接続されるかがわからなくなってしまった(続きとは?)ので、記事を別けることになった。

*2:以前ツイートした中身を中心にしてはいるものの、I-1 を書いた時点から新たにわかった部分もある。注目されるべきこととして、パスパレ・バンスト9話の密度は非常に高く、そこで仄めかされる事柄はかなり多い。他との突き合わせは必要にして、まずはこの話がていねいに洗い出されるべきと思われるゆえんである。

*3:「日菜の前には彩も紗夜も同じ」という見方がありうる。或る意味ではそうであろう。とはいえ、この二人は日菜にとってもそれなりにちがうのではなかろうか、と思わないではない。日菜が同じところで、千聖の出来を、1度目は講師の評価を媒介しつつではあれ、2度目は「それなり」という留保をつけつつではあれ、認めていることを思い起こそう。同じ努力家枠といえど、彩はポ◯コツなのに対し、紗夜はそうとはいえまい。さすがにそのことをわからない日菜であるとは思えない。姉への敬愛は周知の通りである。ところで、拙速は慎まねばならないが、私には、千聖と紗夜は、少なくとも日菜にとっての見え方としては、一部ダブつくところがあるのではないか、と感じられている。日菜は、彼女が自分とはタイプの違う人間であることを(自他の区別がついていない、という本記事の論調に整合するか怪しくなるが、まあ、他はさておき、そのことだけは、きわめて薄っすらと仕方であれ)了解しながら、どちらに対しても一目を置いてはいるようにみえる。この件はもしかしたら他日もう少し詰めて考えるかもしれない。

*4:自他の区別のなさとはまた別の角度から論じてみてもいいかもしれない。試験問題の論述ですることが期待される説明というのは、基本的に、他人に「解答者じしんがどのようにわかっているのか」を示すものであろう。この点について情報のギャップがあるから、それを採点する立場の人間に伝えていく必要がある。ノート I-1 で述べたとおり、日菜はパッとわかってしまうタイプの人間なので、どのようにわかっているかときかれて素で答えると、「自明」の類のことしか言えなくなってしまう可能性がある。もちろん、このことは日菜の論理的能力を全面的に否定するものではないし、与えられた証明を追いかける能力は誰にも対しても劣らないはずではあるのだが。論理的に物を述べる、あるいは、ややナイーヴな言い換えだが、物を考える、そもそも一般に、ひとはこのことをなぜなすのだろうか、と考える。それなりの利得があるからである。どんな利得か。「パッとわかる」ことのできない範囲にまで、推理・推論の力で、一歩一歩正確に道のりを歩みしめる、こうすることによって、たどり着く、それが、広く論理といわれるものを私たちが採択するゆえんではないか、と思う。日菜には、そのような歩みを歩む心理的な必要性を感じる機会が多く欠けている可能性がある。妄想がはかどってしまった。もっとエヴィデンスベースドで話せ。

*5:ただし、これが仮に或る程度正しいとして、日菜にとってどうか、という註3的な問題とどのように絡んでくるかは、明らかでない。

*6:パスパレ・バンスト6話冒頭をみよ。

*7:Roselia・バンスト8話冒頭、ライブハウス前の会話をみよ。もちろん、これが、妹・日菜の真似したがりを忌みつつ言われたであろう、ということは考慮に入れねばならないであろうが。

*8:ギリシア語の相当語(というより、こちらが語源であろう)μέθοδος は、Liddel Scott Jones のギリシア語辞典によるなら、'following after, persuit' などを第一義としている。道 (ὁδός) のあとを追う(μετά)、ということであろう。語源遊びではないか、と言われるかもしれない。とはいえしかし、このような趣きが、メソッドという語の今日的な意味についても核をなしていることを否定する者はいないであろう。その限りで、きわめて有効な言い換えと信じる。

「中川夏紀とシェイク」に関するご質問へのリプライ

 先日の記事に関し、質問箱にてご質問をいただきましたので、引用の上、お答えします。適当に行頭を空ける、という、ご質問原文にはない処理をこちらで施しましたこと、あらかじめお断りしておきます。

 

 「中川夏紀とシェイク」の記事を読み、結論に疑問を感じ、筆を執りました。長文になりますので、お時間があるときにお読み下さい。


 中川夏紀自身の意思が介在している描写からアニメ版にプライオリティを持たせる流れは非常に論理的であり納得できるものでしたが、そこからサイズはどちらでもよいという結論になることが納得できません。というのもアニメ版には絵があり、人物と比較することでシェイクのサイズが推測可能であるからです。

 また、サイズから中川夏紀の性格が更に深掘りできると考えられます。例えば、Mサイズなら「せっかくなら大きいサイズを奢ってあげよう」という意図、Sサイズなら「高額な方を買い、奢られる久美子が気を使わないように」「夕食前の時間にお腹を壊さないように」という意図が込められているかもしれません。
 この辺りの解釈はキャラを理解する上で重要な要素となりえる為、どのようにお考えかお伺いしたいです。

 

 

 まず、ていねいなご質問をいただき、ありがとうございます。それから、ブログ記事を読んでいただき、たいへん嬉しく思います。いま、1点のご指摘、1点のお伺いをいただいた、と理解しています。順にご回答します。

 

1. ご指摘の中身は、私の記事がアニメ版の情報からサイズの任意にとってよいとしたことは不適ではなかろうか、というもので、精確には該当記事の註7のコメントを直接に疑問としておられるのだろう、と理解します。要は、読み取れない、というのはどうなのか、映像情報から精査できる可能性もあろう、ということでしょう。
 ご指摘は基本的に正当と思います。そして、弁解をするならば、決してその点について考えなかったわけではないのです。そのような読み取りの作業が全く不可能であるとして否定しさるわけでもありません。しかし、かなり難しいのは間違いないのではないか、と思うのです。アニメ10話の該当の部分をみますに、ここがマックに当たる場所であることから、このシェイクがマックシェイクであると推理することができるにしても、それでも、その容器には現実のマックシェイクのそれとの否み難い不一致を認めざるをえません。現実のマックシェイクの容器は、サイズはどうあれ、中身のみえないデザインになっているはずですが、アニメに出てくる「F-Burger」のシェイクは透明の容器にいれられており、黄前久美子のものはストロベリーで中川夏紀のものはチョコ、ということがはっきりと視認しうるような状態です。容器にこれほどの相違を認めつつ、キャラクターの(身長から或る程度の憶測はできるかもしれないにせよ)それ自体では明らかになっていない手の大きさから比べてシェイクのサイズを決める、というのは、幾重にも蓋然性が乗じられるわけですから、何か結果を得られてもあまり見込みのないものになるのではないか、というおそれを私は持ちます。
 そうであるなら、それよりは、私は、マックをモデルにしたであろうバーガー店のシェイクだからということでマックシェイクであることは確保しつつ(しかも、この点はさらに原作の記述を支えにできますから、蓋然性が高くなります)、とはいえしかし、サイズについては確定し「難く」、そもそもの言及もないのであって、従って、原作との対応不対応を論ずる余地も得づらいほどであるからには、不問に付し、その結果の良いこと(私たちは、Mサイズを選ぼうがSサイズを選ぼうが、中川夏紀の趣味に違背することはないであろう、という安堵の構えのまま、オーダーに臨むことが可能になるのです。この悦びの大きさを認めないひとはいないでしょう)に満足しておくのが、賢慮というものではないか、と思料するのです。
 私の記事の議論はそもそもが何かを確定しきれるほどのものではありませんし、それは事が事なだけに仕方がない部分もあろうと思うのです。それでも、或る程度までは言えることがあろう、ということを述べたつもりですし、対して、これ以上仔細に入り込もうとすることが、正しい結果をもたらす見込みもあまり高くない、となれば、ここで究明の手を引き止めておくのがよいであろう、というわけなのです。
 シェイクの容器が透明になったのは、シェイクであることや味の何であるかが言語情報からしかわからない、というつまらない話になるのを製作陣が避けようとしたためなのでしょうか。いずれにしても、ここから進もうにも、思いつきに思いつきを幾重にも重ねることになりかねない、という先の危惧は変わりません。(ちなみに、F-Burger のポテトはの容れ物はかなりの程度マックのそれに類似するものとみえます。)
 ご満足いただくには難しい回答かもしれません。この上に何かご指摘をいただけるようであれば、ぜひともお願いします。

 

2. 考えもしなかったポイントについてご提案をいただきました。ありがとうございます。いま少し考えてみた程度ですから、ここで新しい考えをきちんとしたかたちで述べるのは難しいのですが、ラフなかたちでも考えてみたことを述べることにします。
 まず、中川夏紀は他人に配慮のできる人間だと私には思えています(この点は私がそう思うというに留めますが、事実いま明確な証拠をたくさん挙げることもできませんから、異論の余地がないとは思いません、多くの人にひとまず共感していただけるという前提をとりあえず話を進めます)。Sサイズであれば、ご質問で挙げられたようなことを中川夏紀は意図しているのではなかろうか、と思います。たんに金銭的な事情からケチをするようなひとにはあまり見えないですから。Mサイズなら、これまたご質問で述べられるようなこともありましょうし、やはり、今までろくに1対1の交流もなかった上の学年の人間から、いきなり用件も明かされず呼び出される下の学年の人間の心境を想って、「こういうことをする以上は、あまりやりすぎない範囲で気前よくしておこう」と考えることもありそうではないでしょうか。
 この点もこれでお答えになっているか、なっているとして満足なものか、わかりませんが、すでに2点合わせてずいぶん長くもなりましたし、ひとまず筆を置かせてください。

 

 最後になりますが、不足等が目立ちましたら、あらたにご質問をいただければさいわいです。

氷川姉妹研究ノート I-1 知の成りかたに関する落書き

 氷川姉妹*1について、ツイートでだらだらと述べたことがある。いちおう、ブログにまとめておこう。*2


視点

 或る視点から、氷川姉妹のひとつの像を描き出す。視点を定める必要があるので、定める。「知りかた」という視点である。*3これを「知が成る」とも言い換える。*4
 知る。知が成る。そうはいっても、いろいろなレベルが考えられうる。ここでいうのはとくに、一般性のある知の成りである。あれやこれに関する知ではなく、一層普遍性のある知である。*5


スケッチ

 おそらく日菜の知りかたは、すぐれて直接的である。少数の代表的事例のみをみて、その背後にひそむ一般的構造を瞬間的に洞察する、このようなことにきわめて長けている。「パッとわかる」という言い方をしてよいであろう。
 これに対して紗夜の知りかたは、そのようにはなっていない。論理の諸ステップをひとつひとつ上がっていくのでなければ、紗夜は知にたどりつかない。隙間があればそれを埋めなければならない。あたかも、ジグソーパズルのピースがひとつでも欠けていれば、その絵が現れてこないかのような、そういう成り立ちかたをしている。*6
 もちろん、普通、こういった知りかたのいずれも、その程度の濃淡はあれ、ひとりの人間のうちに混在しているはずである。氷川姉妹についても例外ではないであろう。とはいえ、それぞれ、目立ったしかたでは、こういうかたちで知る、いうなれば、世界に関する知をえているのではなかろうか、と思うのである。

 

気づき

 書いていて、この筋でこれ以上何かを述べるのは難しいという気がしてきてしまったので、本記事はここで放棄する。挫折である。関連で言いたいことはまだあるのだが、I-2 に譲る。 

*1:「さよひな」というとき、これはカプの呼称なので、関係のことを指すと理解している。ここで「氷川姉妹」というときは、あくまで、そのひとりひとりに焦点がある。

*2:2017年12月8日、ツイッターでへげもん (@_hegemon_) 氏の述べた考えに対して、多少の異論をふくめつつ、私じしんの考えを述べた、そのまとめである。氏のツイートが、その出した諸論点によって、おそらくは若干の相違をふくみつつも、ここで考えられるべきことどもを主導し (ἡγέομαι; hegeomai) たわけである。以下、いちいち氏の意見との照応を試みないが、本註をもって、触発を受けたことについての謝辞と代える。

*3:いま、この視点の是非は問わないでおく。結果の豊かさ、ないし貧しさが、それについて読者に判断を下させるであろうから。というのも、この視点をとるに至った、必然的理由というのはないからである。かわりに、その動機が存在し、これについて一言しても無駄ではないはずである。世にはすでに氷川姉妹についての一連の謂いがあると思われる。紗夜は努力型。日菜は天才型。紗夜は日菜にコンプレックスを持っている。紗夜は自己肯定感が低い。このように言われているところに、異を唱えよう、というのではない。大筋では同意したい。とはいえ、こういった諸々の理解に、もう少し別の角度から迫ることはできないか。この視点をとる背後には、このような疑問がある。

*4:些末だが、「知」という名詞形を導入するため。

*5:世に同じものが「抽象的」であるとかいわれることもある。これは、一般的な知の或る側面、すなわち、個々の知からその個々の具体性の抜き去られたもの、という側面を、特に言い当てようとしているのであろう。ここでは、知的な諸操作の細かい区別には立ち入らない。「一般性のある知」という語で喚起される常識的なイメージに頼らせてもらう。

*6:紗夜にいったことを日菜についていうなら、日菜は、論理のステップなどそのほとんどを飛ばしてただしい結果にたどりつける。そして、ジグソーパズルの比較的少数のピースからすぐさま絵をみいだすかのごとく、知るのである。

本ブログのガルパ考察に対する一般的な釈明

(以下、言い訳と決意表明とをダラダラとかく。自分のために書いているので、読まなくてよい。なんかこういうのアニメキャラっぽくていいと思わない?)
 ガルパの諸々のことについて、たくさんの、いろいろのことがすでに言われているであろう。ここにしるすのは、だから、それら既存の言説に何かを付け加え、以て読者の考察に資するところになる、というようなことであるか、果たして自信がない。とはいえ、気になったひとが読んでくれれば、その上幸運にも何かの役に立つならば、充分なほどなのだから、これよりは、そういうことをあまり気にせず、綴ろう。
 私がガルパを始めたのはごく最近で(本記事執筆時点で2週間に満たないように思う)、当然ながら各種ストーリーも会話イベントも、初心者なりにしか開けられていないと思われる。だから、以下に述べることがきわめて拙く、また調査の足りないようにみえるのではないかと惧れる。免責を請うのではない。その限りでは、私の思うところ、感じるところを、ここに直截に記しておくことにも、何ほどか意味があるのではないか。ご指摘をいただくこともあろうし、後で読み返してみずから恥じてなおすこともあろう。書かなければそういうこともない。記憶から消えるだけである。だから、ここに書くことは基本的に覚え書き、覚えおかれるべきことども memoranda である。
 なお、この種の釈明は一度やればじゅうぶんであろうから、本記事をもって最初で最後にする。その意味で「一般的釈明」とする。

中川夏紀とシェイク

 ブログを開設する、とだけいって、それ以上何も述べずにおくのが、ブログ開始時の怠惰のしばしばとる形である。だからせめて、以前思いついたことを書いておこう。そうして、私から怠惰を締め出しておこう。

 

 論題の設定:中川夏紀の表象としてのマックシェイク・チョコ味

 『響け!ユーフォニアム』作中、原作にせよアニメにせよ、中川夏紀といえば、マックシェイクのチョコ味のイメージ*1が喚起される、ということは、一般にいって、あるであろう。私は中川夏紀の人柄に大変な尊敬の念を抱いたので、最近はみずからもマックシェイクのチョコ味を飲むようになった。しかし、いま、マクドナルドのメニュー表をみよ、そこには、サイズのSとMとがあるのである*2。ここに躓きがうまれる。私はさて、そのうちのいずれを、中川夏紀を表象するマックシェイクとして、選ぶべきであるのか*3。畢竟、中川夏紀の表象としてのマックシェイク・チョコ味とはどれであるか、これが論題である。

 私が、いや私たちが、この躓きからふたたび立ち上がること、そのときこそは、露ほどの迷いもなく然るべきマックシェイクをとり、中川夏紀への敬意を込めつつ飲む、という悦びの日々を全きしかたで私たちが回復すること、これを祈りながら進もう。

 

目指されるところ:思い込みの除去の必要性

 中川夏紀は原作第一楽章第1巻で、黄前久美子マクドナルドで100円まで奢る旨をはっきりと示し、シェイクを奢っている*4。いまの私たちにとってのマックシェイクSサイズは120円であるが、あの世界では100円がSサイズの値段だとしてよい*5。アニメ版においては異なっている。アニメ第10回冒頭の中川夏紀は「奢るからさ」とのみ端的に述べるにとどまる。かくて、原作からする限り、中川夏紀を表象するマックシェイクは、正確にはSサイズのそれでこそなければならない、という次第であるように、一見しては考えられかねないであろう。

 しかし、この見解は、或る思い込みに基づいて成り立っているように思われる。いうなれば、原作の記述こそが、あらゆる点で、同じ作品の他のメディアのそれよりも重視されねばならない、という思い込みである*6。この思い込みを崩すのに、アニメ版こそが原作よりも重視されるべきだ、という立場を正当化する必要はない。アニメ版が、少なくともそういった箇所の記述については、この問題に関する限りで、原作に代え難い役割を担った、ということを示せば足りるはずである。以下、私たちは、そのことを論証していこう。

 

解明:原作とアニメとのあいだに横たわる或る対蹠

 原作における、黄前久美子と中川夏紀との或るやりとりに私は注意する。

「アンタ何食べたいん?」

「え、あ……じゃあシェイクで」

「オッケー、了解」(武田(2013)、240頁)

ここはていねいに読み解かれねばならない。中川夏紀がしているのは何で、黄前久美子がしているのは何であるか。中川夏紀がしたのは、黄前久美子の意思の確認である。原作にあって、マックシェイクを選んだのは、──無論、100円の制限のなかで、ということではあるにせよ──、あくまでも黄前久美子であって、実は中川夏紀ではないのである。

 このことが気づかれるならば、アニメ版対応箇所との対蹠はもはや鮮明であろう。アニメ第10回を想起しよう。店内の席で待つ黄前のところへとシェイクを携えつつ、中川夏紀はいう。「ごめんね、奢るっていってこんなもんで」。この発言の意味するところ、極めて微妙と言わねばならないにせよ、原作とのちがいは明白であるようにみえる。原作と異なり、アニメでは中川夏紀じしんがシェイクを選び、購入してから、然るのち(おそらくは先に席に着いていた)黄前久美子に渡す、という運びになっているととるのが最も自然であろう。仮に、描かれてこそいないものの、原作と同じく、黄前久美子に意思確認をした上でのシェイクの選択であった、というのであれば、「ごめんね」「こんなもんで」という断りをくどくいれる必要は薄いのではないかと思われ、この仮定をとるべき理由は見出しづらい。あくまで中川夏紀がみずからの意思として、──たとえばハンバーガーをではなく──、シェイクを選んだ、という風に、ここをとって不都合はないであろう。マックシェイクの選択について、それが原作では中川夏紀の意思でなく、アニメでは中川夏紀の意思である、という対蹠がとりだされる。

 問題は、このような対蹠が何を帰結するかである。ここで、私たちの念頭に置いているのが、マックシェイクと中川夏紀との結びつきであったことを思い起こそう。そういった結びつきを私たちは、どうして得るであろうか。同種の結びつきについて、強い結びつきと弱い結びつきとがあるなら、強いほうをいわば範にとるであろう。原作における結びつきとアニメにおける結びつきと、強いほうはどちらか、という問いにかくて移行する。こう導入しておけば、あとは簡単である。マックシェイクの選択に中川夏紀じしんの意思の存在が認められるアニメのほうをこそ、そのようにみなし、この結びつきの範とすべきであるように、ここに至っては思われるのである。

 中川夏紀の表象としてのマックシェイク・チョコ味という問題の圏域にあって、また、その限りで、アニメ版の記述の教えるところが原作の記述の教えるところよりも一層の重みをもつ、いうなれば、前者が後者に解釈上優越する、ということを示す、それによって、原作の常なる優位という思い込みを捨て去る、私たちは、いわばそういうところを目指していた。いま、表象と表象されるものとの関係にある両者の結びつきの範が、アニメの描写にこそとられるべきことが確認された。ここから順繰りに、いま述べた次第が続いてゆくことは論を俟たないように思われるし、くどいので省く。

 この到着点から、最初の問いを見晴るかそう。中川夏紀の表象としてのマックシェイク・チョコ味とはどれであるか、これが最初の問いであった。サイズが問題になっている。いまこれに答えるなら、こうなる:どちらでもよい*7

 

結論

 私たちは中川夏紀といって、マックシェイク・チョコ味を思い浮かべる。サイズはふたつあるが、どちらがより一層このイメージあるいは表象に合致するのか。結論としては、このような問いじたいがそもそも棄却されるのである。

 長い迂路を辿り進み、いまやこうして、私たちの日々は取り戻される。安寧に落ち着いた、このいまにあってこそ私たちは、感慨も一入に、マックシェイク・チョコ味の任意のサイズを選び取るのに何らの憂いもない事実を確認し、そのような平穏を言祝ごう。

 

主要参照文献

*1:以下、この種の「イメージ」の意味で、「表象」という語を基本的には採用する。「イメージ」とのみいうと、多義的に思われるし、それに対してこの語は、見た目も簡潔だからである。このようにしるせば、誤解も生じないであろう。

*2:次を参照:公式のメニューページ、「スイーツ」の項 http://www.mcdonalds.co.jp/menu/dessert/

*3:なお、そもそもそのシェイクは「マックシェイク」なのか、という点について、本題ではないので、註でコメントする。第一楽章第1巻の該当箇所(本文にて後述)をみるかぎり、この点、原作においては揺がし難く思われる。また他方、アニメ版においても、アニメ版はつねにモデルの舞台との地理的照応がはかられているのだから、いま幾人もの人々の証言を信頼するならば(たとえば次のブログ記事を参照:blog-entry-406.html)、そこに登場する「F Burger」なる店も、それに該当するマクドナルドの店舗があるといってよろしく、ここまで言えば、これ以上仔細に立ち入る必要もないであろう。

*4:次を参照:武田(2013)、239, 240頁。

*5:2017年12月現在、マックシェイクはSサイズで120円だが、これは2013年5月の改定以後の価格で、それ以前は同商品同サイズが100円だった。この巻が世に出たのはその年の12月のことである。原作者にとっては、100円のままでとっておくほうが自然に思われたのであろうか。マクドナルドの2013年5月の価格改定については、次を参照:日本経済新聞マクドナルド、主力商品値上げ 100円台商品も拡充」2013年4月18日20:50付 http://www.nikkei.com/article/DGXNASDD180QJ_Y3A410C1TJ1000/

*6:もちろん、あらゆる点で、というところを、多くの点で、とか、一般的に、と置き換え、ひとつの原則としてこれをみるならば、この原則を否定する必要はあまりないはずである。そこで本稿の主眼は、その原則の例外を例外として見定めるところにある。

*7:以下、瑣末な点ではあるが、ここまで読んできて気になる向きもあろうから、註に譲る。アニメの該当箇所は決してMサイズを、──原作とはちがって──、描写しているわけではない。もしかすると、Sサイズなのかもしれない。しかし、描かれておらず、すなわち頓着もされていないのだから、サイズに関しては不問に付されており、自由にゆだねられている、とみるのがよいであろう。