Notitiae vix notandae

タイトルのとおり。知られる必要のほとんどない知見を書いていきます。

氷川姉妹研究ノート I-2 説明能力ということ(附:丸山彩と氷川紗夜)

I-1 の続きである。*1やや別の話になっているかもしれないとはいえ、こちらのほうが実質の中身をもつと信じる。*2

 

日菜の説明能力の欠如

 ゲーム中、パスパレのバンドストーリー9話に、重大な示唆がふくまれている。周知の通り、丸山彩の出来のわるさを理解できない日菜がそこにはみられる。*3それだけか。続きをみよう。何をすればそのことができるようになるのか、そのことができるとはどのようなことか、説明のできていない日菜が現れてくる。そこに大和麻耶が介入してくる。麻耶の論説によって、他人をみいだしておどろく、そのような日菜が現れる。自分と他人とは異なるのだ。自他の区別が日菜の上に(おそらく、少なくとも本格的な仕方では)はじめて生じる。彩がわからない。他人がわからない。そのわからなさの因るところをわかる、そういった場面である。

 自分と他人とは異なる。他人への説明というものは、一般に、この見地に立ってなされる。自分と同じなら、説明の必要も生じない。何かの条件が異なるから、そこではじめてギャップが生じて、説明も求められるのである。9話時点の日菜には、そういうことがまったく理解できていないようにみえる。説明の意義を理解していない。そもそも自他に区別がついていないからである。

 たとえば数学で、結果だけ書かせる単純度のきわめて高い計算問題は難なくこなすものの、証明問題の解答など、放っておけばろくな記述にならないのではないか、と思われるのである。こういった勉強科目については、一定の訓練のもと、一定の指摘が与えられる、いうなれば型が存在しており、それに倣うことを求められる機会があるので、或る時期まではきちんとできず、その後できるようになった、そのようなことがあるのではないか。あるいは、なんとはなしにその型には沿っておく、そのような態度をとっている可能性も、他方で、あるのではないか。従ってはおくが、なぜそのようなことをしなければならないか、ということまでは、他人が「わからない」のだから、自他の隔たりというその原因が「わからない」のだから、「わからない」。そういうことも、ひょっとして、あったのではないか。*4

 

 氷川紗夜と丸山彩

 いま、一瞥で、彩と紗夜とが同じ努力家ジャンルにあるとして、しかしその差異を見定めようとするならば、彩には努力をする際のメソッドが(少なくとも、或る部分については、或る時期までは)欠けており、紗夜にはそれがある、と、ひとまず言えるのではないか。私にはそう思われている。*5

 パスパレ・バンスト9話の、先ほどと同じ箇所をもう一度みたい。注意を凝らす者は誰であれ、日菜の、どうしてできないのか、という質問に対して、「ごめん」と〝答え〟てしまう丸山彩の姿をそこに認める。私の知る限り、このような問いに対して、全く答えになっていないしかたで謝罪を述べてしまう、というのは、典型的な「できない子」であることを白状しているようなものである。なぜできないのかを、彩自身がわかっていない。探ってみて、おおよそこのあたりのところに問題があると思った、とか、その類のことを、──たとえ間違いでもよいから──、述べる、ということを放棄しているようにしか思われない。

 彩は夢に向かって努力をする、そのような公式的見解を覆す証拠は何らあるまい。そして研究生時代の自主練をパスパレの練習現場に導入したのは他ならぬ彩である。とはいえ、それは研究生時代に「教わった」から身についているというにすぎない。*6

 対して、紗夜はどうか。「教科書的」としばしばいわれるところの彼女の能力は、そのいうところを返してみるなら、誰にでもできるはずのこと、できて当たり前のことはこなしている、ということである。独創性に興味がない、とまでいうと当たらない。「自分たちだけの」という形容にこだわる紗夜を私たちは知っている。*7独自性をひたすらに追求する、ということの基礎には、何がないといけないか。誰もができることは、当たり前にできなければならない。独自性の前に平々凡々の研鑽が必要である。このようなことを、たんにこの種のフレーズを口で軽々しく唱える以上に、真に意識できているひとは少ない。おそらく紗夜は、きちんと意識できている。だから、日々常人のなしえぬほどの研鑽を積んでいるのであろう。

 紗夜をただの努力家と区別するのは何か。今いった意識はそのひとつのメルクマールであろう。それ以外に、メソッドのあることと先にすでに述べた。教科書的、ということのいまひとつの意味は、型がある、ということでもあろう。ひとつの型を身につける、定石をしる。これをメソッドの在り処とみて、何ら不都合を覚えない。先人の来たった、その同じ道を追う、ということである。*8

 また別のところ、ライブ後の会話で、白金燐子に向かって述べていることがおもしろい。こう述べる:「いいライブでした。……でも、満足するのは早いわ。改善すべき点を見つけて、早速、練習に行きましょう」(引用内下線は引用者による)。いいライブだった、と一旦肯定した上で、満足せず、改善すべき点を見つけよう、というのである。いいライブ、と評価するためには、まず一定の基準がなければならない。その水準は満たした、と判断しなければ、このような言い方には至らないであろう。さらに、そこに満足するのは早い、つまり、その水準はクリアしたけれども、そこに歩みを留めずにおこう、というのである。そのために、改善すべき点を洗い出そう、といっている。こういうのは、いまおかれていた基準からすれば、目立った問題点が見出されていないからであろう。そうであれば、みつけるまでもない。見出されていないから、見出そう、というのである。そのためには、いまおかれているのよりも高次の基準、いま用いているのよりも目の細かい物差しを採る必要がある。特定の基準をみたす [i]、その基準に留まらない [ii]、より高く新しい基準をおく [iii]、その基準から問題点を洗う [Iv]。i から iv を繰り返すことで、いわば螺旋階段上にレベルアップしてゆく。そのような方式をよみとっては、よみとりすぎであろうか。

 

 想い

 今回も根拠薄弱なままいろいろ書いてしまった。そもそも全体として何を言いたいのかじぶんでもよくわからない。「研究ノート」というのは書き散らしてもいいという意味でのタイトルである。別の根拠を持ち出して反証してくれるひとが出てくれれば話が盛り上がるし、アイディアとしてでも大事にしてもらえるなら、いつかこれを補強する証拠がみつかるかもしれないし、或る程度は気楽に書いている。今回は、附論のほうが長くなってしまったのも、よくわからない。氷川紗夜への想いが強すぎたのかもしれない。

 紗夜さんは実のあるかたちで努力ができるタイプです。学問的な能力は、ガルパの他のひとに比べても高いほうではないかと思うのです。ですから、いまは日菜ちゃんが近くにいて気がかりでしかたないかもしれないけれど、大学に進んで(唯一の、ではないにせよ)そこに適所をみつけられるとよいな、と祈念するばかりです。

 コメント等いただけたら勉強になりますので、気が向いたかたはぜひよろしくお願いします。

*1:どう接続されるかがわからなくなってしまった(続きとは?)ので、記事を別けることになった。

*2:以前ツイートした中身を中心にしてはいるものの、I-1 を書いた時点から新たにわかった部分もある。注目されるべきこととして、パスパレ・バンスト9話の密度は非常に高く、そこで仄めかされる事柄はかなり多い。他との突き合わせは必要にして、まずはこの話がていねいに洗い出されるべきと思われるゆえんである。

*3:「日菜の前には彩も紗夜も同じ」という見方がありうる。或る意味ではそうであろう。とはいえ、この二人は日菜にとってもそれなりにちがうのではなかろうか、と思わないではない。日菜が同じところで、千聖の出来を、1度目は講師の評価を媒介しつつではあれ、2度目は「それなり」という留保をつけつつではあれ、認めていることを思い起こそう。同じ努力家枠といえど、彩はポ◯コツなのに対し、紗夜はそうとはいえまい。さすがにそのことをわからない日菜であるとは思えない。姉への敬愛は周知の通りである。ところで、拙速は慎まねばならないが、私には、千聖と紗夜は、少なくとも日菜にとっての見え方としては、一部ダブつくところがあるのではないか、と感じられている。日菜は、彼女が自分とはタイプの違う人間であることを(自他の区別がついていない、という本記事の論調に整合するか怪しくなるが、まあ、他はさておき、そのことだけは、きわめて薄っすらと仕方であれ)了解しながら、どちらに対しても一目を置いてはいるようにみえる。この件はもしかしたら他日もう少し詰めて考えるかもしれない。

*4:自他の区別のなさとはまた別の角度から論じてみてもいいかもしれない。試験問題の論述ですることが期待される説明というのは、基本的に、他人に「解答者じしんがどのようにわかっているのか」を示すものであろう。この点について情報のギャップがあるから、それを採点する立場の人間に伝えていく必要がある。ノート I-1 で述べたとおり、日菜はパッとわかってしまうタイプの人間なので、どのようにわかっているかときかれて素で答えると、「自明」の類のことしか言えなくなってしまう可能性がある。もちろん、このことは日菜の論理的能力を全面的に否定するものではないし、与えられた証明を追いかける能力は誰にも対しても劣らないはずではあるのだが。論理的に物を述べる、あるいは、ややナイーヴな言い換えだが、物を考える、そもそも一般に、ひとはこのことをなぜなすのだろうか、と考える。それなりの利得があるからである。どんな利得か。「パッとわかる」ことのできない範囲にまで、推理・推論の力で、一歩一歩正確に道のりを歩みしめる、こうすることによって、たどり着く、それが、広く論理といわれるものを私たちが採択するゆえんではないか、と思う。日菜には、そのような歩みを歩む心理的な必要性を感じる機会が多く欠けている可能性がある。妄想がはかどってしまった。もっとエヴィデンスベースドで話せ。

*5:ただし、これが仮に或る程度正しいとして、日菜にとってどうか、という註3的な問題とどのように絡んでくるかは、明らかでない。

*6:パスパレ・バンスト6話冒頭をみよ。

*7:Roselia・バンスト8話冒頭、ライブハウス前の会話をみよ。もちろん、これが、妹・日菜の真似したがりを忌みつつ言われたであろう、ということは考慮に入れねばならないであろうが。

*8:ギリシア語の相当語(というより、こちらが語源であろう)μέθοδος は、Liddel Scott Jones のギリシア語辞典によるなら、'following after, persuit' などを第一義としている。道 (ὁδός) のあとを追う(μετά)、ということであろう。語源遊びではないか、と言われるかもしれない。とはいえしかし、このような趣きが、メソッドという語の今日的な意味についても核をなしていることを否定する者はいないであろう。その限りで、きわめて有効な言い換えと信じる。